愛媛大學について

學歌

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作詞:井手淳二郎 作曲:下総皖一

  1. university-song1伊予の高嶺の 尾根にそひ
    立てる群山に 花咲きつぎ
    雲とざすとも 雲分けて
    求めむ高き 遠きもの其を
  2. 瀬戸の內海の 磯つなぎ
    ならぶ砂浜に 鳥飛びかひ
    波あらぶとも 波越えて
    究めむ深き 博きこと其を
  3. 二名愛媛の 名をしたひ
    つどふ友たちよ 空晴れたり
    いざあらた代の 図負ひて
    明るき道を ただに進まむ

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資料

~學報(digest No.409)平成9年10月號より抜粋~
「50年史編集室から 愛媛大學の歩み(9)-伊予の高嶺の-」

學歌の由來

「伊予の高嶺の 尾根にそひ 立てる群山に 花咲きつぎ????」。これは皆さんよくご存じの愛媛大學學歌です。大學の入學式や卒業式などで必ず歌われていますが、學歌の內容について考えることは、ほとんどないのではないでしょうか。今回は、學章、學旗と並ぶ愛媛大學のシンボル、學歌について述べたいと思います。

まず、學歌はいつ頃作成されたのでしょうか。昭和27年(1952)6月30日付の學報第29號に、「校歌募集」という記事が掲載されました。応募資格は、本學(附屬學校を含む)の教職員と學生であること。歌詞は、本學の歌であることがよくわかるような內容で、できるだけ平易な、楽しく歌えるようなものであること。審査は、文理學部と教育學部の國語學教室が擔當し、當選作1篇に賞金2千円を、佳作2篇に賞金各千円が贈られることとなりました。審査結果は9月の講義開始日に、ということでした。しかし、當選該當作がなかったのか応募そのものがなかったのか、その後発行された學報には、審査結果はおろか學歌に関する記事は掲載されませんでした。それから數年後の昭和31年(1956)、1月31日付の學報第72號に、愛媛大學學歌の歌詞完成の通知が掲載されます。作詞者は當時文理學部教授であった井手淳二郎先生でした。この間の経緯は不明ですが、「募集したもののうまく行かず、文章が非常に上手であった井手先生に、依頼したのではないでしょうか。」と、和田茂樹愛媛大學名譽教授は話されています。井手先生の歌詞に、東京蕓術大學音楽部の下総覚三(皖一)教授によって作曲がなされ、學歌の完成をみたのでした。

以上のような経緯で、愛媛大學の學歌が制定されたのですが、次にその歌詞の內容について觸れたいと思います。昭和61年(1986)、愛媛大學法文學部國語國文學研究會の発行している研究誌『愛文』第22號において、小泉道法文學部教授(當時)が「伊予の高嶺と群山と」と題する文章を発表しました。それによると、「伊予の高嶺」という言葉は、『萬葉集』の、「????島山の 宜しき國と こごしかも 伊予の高嶺の????」という山部赤人の歌に初出し、「伊予の高嶺」がどの山を指すかについて、 ①石鎚山一峰を指す説と②道後溫泉の背後の山々と北東方にわたる連山を指す説があるということです。現在では②説が一般的とされているようですが、作詞當時は①説が一般的であったようで、學歌の歌詞も石鎚山を想定したものであると考えられます。他にも「群山」「あらた代の 図負いて」「二名愛媛」など、『萬葉集』や『古事記』にその出典が見られる文言が多く、作詞者が上代(奈良時代頃)の文學に精通していたことが伺えます。そのような古い言葉を使用しているのにもかかわらず、堅苦しさ、重々しさを感じさせないのは、漢語ではなく和語を使用しているためであると指摘されています。たとえば、「高き遠きもの→理想」「深く博きこと→真理」「明るき道→希望」といったように、抽象的な意味を持つ漢語に置き換えることも可能ですが、あえて和語を使用することによって、なめらかな印象を與えています。また、「求めむ」+目的語(ex.「高き遠きもの」)+そを といった倒置法を用いて末尾を引き締めた、と指摘しています。以上のような考察を述べて、最後に「平明にして格調の高い作詞」であると稱えています。前途洋々の新制大學にふさわしい學歌であると、當時の人々は感じたのではないでしょうか。

學歌が作成されて40年以上が経ちましたが、その歌詞の美しさはいつの時代も変わりません。
愛媛大學が在る限り、學歌は歌われ続けるのでしょう。(S.T)

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